4月, 2009 のアーカイブ

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どんぶらこ

なんだかしばらく前に思ったことと少し重なるところがあるかも、などと。

意味論的なデザインのアプローチへの転回

いつだったか、友人と話をしてる時に「その頃から”デザイン”って言葉が変に色んな使われ方されるのが増えてきた」というような事が話に出てきて。なるほどなぁ、と。

いったい何がひっかかったのか。言葉は同じだが、昔は全く違った意味で使われていたよ、というのは雑学ネタとしてよく聞くとは思うのだけれど、それが自身を取り巻く環境でリアルタイムで行われているということに、はたと気が付いたのです。

ほんとうにごく当然のことだとは思うのですが。

そして、言葉ってのは「船」なのかなと。

その船は積み込まれている荷物によって構成され、言葉という船は常にアップデート、解体~再構築といった新陳代謝を繰り返しているのではなかろうか。そしてこの船の面白いところは明確な舵取りや船長が存在しないという事(声のでかい乗組員はいたりするけど)。

コンテンツともいえる荷物は各人が持っている。多くの場合、船が自分に着岸するまで、荷物はもやもやとした雲や霧のようなもので、来航によって初めて輪郭を現す。そこらで人は自分が荷物を持っていた事に意識的になり、船に積み込まれ、どんどん船が作られていく。

あとはその船が時流に乗ったものであれば、どんどん凄い速さで拡散していく。なにより、この言葉という船は基本的に距離は関係ないし、誰でも自由に使い放題。そして誰にも使われない言葉というのは役に立たない、なんといっても通じなければ用途をなさない。

多くの人は、もやもやとした雲や霧にそれほど注力してないし、いまある言葉でやり繰りしてる。けっこうなんとかなるし、忙しいだろうし。でもそういった、もやもやに敏感な若者や人はそれをあれこれと考えてみたり、気にしたりする。

そこで時たま凄く乗りやすくて、使い勝手のよい船が出てきたり。

「イケてる」とか「ウザイ」とか。

そうすると、もう拡散性が大活躍。いままで何となく雲のように漂っていた気持ちが刺激されて『そうそう、このもやもやは”ウザイ”ってのが凄くはまってるし、使いやすい』それが至るところで繰り返されて「ウザイ」号にはがんがん荷物が積み込まれ巨大になっていく。

ここで「デザイン」って言葉にもどりますが、同じように「デザイン」号にもいろんな人がいろんな荷物を積み込んで、肥大化している感があります。(あと似たような使われ方がされてる言葉ではアートとかも。。)

そして、言葉の拡散や肥大が進み、その言葉が使われる文脈が多様化してくると次は徐々にズレが生じてきます。話をしていて相手と自分の思っている言葉にのってる荷物が違う、、いまいちかみあわないぞ…

非常に軽い存在に思えていた言葉に色んなものが乗っかりすぎて、どうにも取り回しが悪い。そこらで考え始めます「デザイン」ってそもそもなんだ??

本来コミュニケーションを潤滑にするための言葉が使われ続けることにより、徐々にエラーが蓄積される。そうしたズレ、エラーをきっかけに言葉の再定義、解体~再構築。荷降ろしがされて、荷物が検品され、別の船に乗るものもあれば、また雲や霧になり、次の来航を待ったり。

言葉の代謝速度が速いのは、言葉というものが外部に開かれていて、その為に大変に不安定にもなりますし、ある意味弱いともいえます。しかし、多くの人が乗っかれるのもそういった不安定でアメーバのようなしぶとさがあるからだと言えます。

その点、モノは非常に硬いし、明確です。目の前に犬がいて、言葉だけで見た事ない人に伝えてみろ、と言われるとやっかいですが、描いて見せる事が出来ればとてもスムーズです。

意味論的なデザインのアプローチへの転回

ところが、これまでの技術中心のデザインの発想では、同一の物であれば観察者が誰かに関わらず同じ意味=価値をもつものとして捉えてしまう傾向がありました。ある物は機械論的な因果関係によって誰が用いても同じ結果=意味をもたらすシステムとして考えられ、それを機能と呼びました
しかし実際には、物の意味は利用者との相互作用的なコミュニケーションによってしか定まらない。人びとは現実世界で物に触れる現実的な行動そのものによって物が特定の意味をもつ自らの世界を常に再生産し続けているというのが、クリッペンドルフが提案する意味の転回されたデザイン観です。

もしかすると何かをつくることにおいても、そういった意味の代謝をもたらすというのが大切な事なのかな、と。もちろんモノを扱った場合、ある制約は あります。強度があるぶんイメージを固定しやすい。でも、なかにはそういったイメージを離れることがあります。ソファで寝たり、コップに花を 生けてみたり。

何故そんな事になるのか、ってそれは人が世界に対して開かれた状態で働きかける事が出来たから。そして、何かをつくる側の人は人にそういう行為を許容できるような(ある種のしぶとさがある)ものが出来れば、とてもいいよね、って。

さんざん言葉は代謝が速いとかいっておきながら、ある種の言葉の遅さというのも感じます。やたらに「デザイン」という言葉に多量の荷物が載せられていながらも、その荷を分散したり、引き受けるような言葉はまだ来航しているとは思えないので。

んー、なんだか少し思ってみたことをだらっと垂れ流そうと思いましたが、ほんとにただの垂れ流しになってしまった。ただよっているものを言葉にするのは難しい。しかしながら、こういっや言語化以前のもやもや、もごもごというのは形をなしてないが、ちゃんとある。というのも、とても大切なことかな。これほど言葉が散乱してる時代には無いように思ってしまいがちだけれど。

40しかわかってないことは60とかにして書かないようにしたい。と思いつつ、それが出来たかイマイチ自信なし。。

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少しアウトプットしないと。

脳の「共感スイッチ」:情報の氾濫は共感能力を阻害する?| WIRED VISION

4月13日付け『米国科学アカデミー紀要』(PNAS)に掲載された、南カリフォルニア大学の神経科学者Antonio Damasio氏などによる研究では、13人の被験者に対して、マルチメディアによるドキュメンタリー形式で、共感をかき立てるように意図された物語を提示し、被験者の脳の活動を記録した。

この結果、共感や賞賛といった感情は、大脳皮質よりさらに深い部分の、視床下部や脳幹に根ざしていることがわかったという。こういった領域は、生物としての活動自体を統御する根本的な部分だ。

「少なくとも、社会的な感情は、皮層的な領域ではなくもっと内側に根ざしているということが言えるだろう」とDamasio氏は語る。「共感や賞賛 といった感情は文化的なものだという印象があるが、これらは脳の領域としては、恐怖などの生物進化的に古い感情と、そう遠くない部分に根ざしている」

記事の後半からは、素早く断片的な展開の情報ばかりをメディアから受け取っていれば脳に中に影響ありますよー という、話になってますが。それはまた別の機会に。

そして、もうひとつ。

他者と自己の区別をしない神経細胞:ミラーニューロン | WIRED VISION

「われわれの脳は、空間を少なくとも2つの大きな領域に区分している。1つは自分が何かできる、行動を取れる領域、もう1つは行動が及ばない領域だ」と、 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で人間のミラーニューロン・システムを研究するMarco Iacoboni氏は説明する。「われわれの認知は、共感などのかなり高度なものでさえ、身体感覚と無縁ではないようだ」

「ミラーニューロンは、社会的関係に非常に重要である可能性があり、特に、今回の発見はそのことを明確にしている」とIacoboni氏は説明する。「ミラーニューロンはある行動を、他者と協力するという点において重要なやり方でエンコードしている可能性がある」

後者の記事では共感をかなり高度な認知としています。

前者の記事で共感や賞賛という感情のスイッチが視床下部や脳幹といった、脳の深い部分に根ざしていると。

共感というのは高度なことなのかもしれませんが、人の脳の深い部分にこういったスイッチがあるということは、共感は人が生存する為に重要な役割を担っているということになるのか。

人が生きていく、という根本的なところから他者と協力する、社会性を伴うというのは、なんだか大切なことのような気がする。

ちなみに、、脳科学とか、その周辺の本は流し読みしたことはありますが、ちゃんとした知識はないので、勝手に勘違い、解釈してる可能性は大いにあります。

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